タスクの独り言

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信長の戦略的軍略と勇敢なリーダーシップ(後編)

 

信長の華々しい戦略と決定的な勇気〜甲斐の武田家との死闘〜

戦国時代において、最も恐れられた武将として名高かった甲斐の武田家との戦いが起こりました。信長は、徳川家康との連合軍を組んで武田家に挑みました。

この壮絶な戦いで、信長側にはいくつかの勝因が重なりました。最も大きな勝因は、武田信玄の急死でした。

信玄の死により、武田軍は進軍を一時中止して本国に引き返すことを余儀なくされました。この中止期間が信長と家康の連合軍に兵を整えるための準備期間を与え、結果として織田・徳川連合軍の総数が武田軍を上回ることになりました。

また、信玄の死によって武田側は統率を失ったことも要因でしょう。信玄のカリスマ性によって動かされていた武田家は分裂の危機を迎えました。

連合軍はこの間に、3000丁もの鉄砲を用意しました。戦では鉄砲隊を1000人ずつ3列に布陣し、「三段撃ち」と呼ばれる戦術を実行しました。最前列は射撃後に最後列まで下がり、その間にほかの2列が撃つことで、火縄銃の最大の欠点である「2発目に時間がかかる」問題を補い、戦国最強と称された武田軍を打ち破ったのです。

この戦いは、鎌倉時代から続いた「馬に乗り、剣や槍で斬り合う時代」から「銃による戦争」への転換を象徴する戦いとも言われています。



 

本能寺の変〜信長の突然の死〜

信長は天下統一へと歩みを進める中、突如として1582年(天正10年)6月2日に起こった「本能寺の変」によって予期せぬ死を遂げることとなりました。この事件は、日本の戦国時代における重大な転機として歴史に刻まれています。

信長はこの時、わずか30人ほどの小姓衆を連れていただけでした。対して、信長を襲撃するために明智光秀は1万3000もの兵を率い、本能寺を目指して進軍していました。光秀の部下たちも信長に弓を引くことを予想しておらず、彼ら自身もこの決断に戸惑いを感じていたと言われています。

本能寺の変における光秀の言葉「敵は本能寺にあり!」は、その後も多くの人々によって語り継がれています。この一言が戦国時代の激動を象徴するものとして、今日でも広く知られています。

本能寺の変の原因については諸説あり、資料の不足からはっきりとした真相は明らかにされていません。光秀が信長を討った理由は、「自分が天下人になるつもりだった」「母親を見殺しにされた」「公衆の面前で恥をかかされた」など、複数の説が挙げられています。

また、信長が本能寺内で切腹したとされていますが、その遺体は見つかっていません。このような謎めいた事象から、本能寺の変は「戦国最大の謎」と呼ばれることもあります。

本能寺の変によって信長は突然の死を遂げ、その天下統一への道は絶たれる結果となりました。彼の死後、豊臣秀吉が後継者として台頭し、天下統一を成し遂げることになるのです。